この番組は「教える」をなめらかにし、みんなの「かわる」に寄り添うを掲げるPOPER代表の栗原慎吾と、山村で自宅を図書館として開き、「地に足をつける」生き方を探求する思想家・社会福祉士の青木真兵が、さまざまな「教える現場」を訪ね、その奥深い呼吸に耳をすませながら、教育の本質を問い続けるトーク番組です。=構成・向山夏奈 |
鳥羽和久(とば・かずひさ)さん プロフィール |
大人が言葉を失い、子どもを巧妙に囲い込むようになった
栗原 前回、「子どもたちの最後の砦になりたい」という言葉がありました。その思いは鳥羽さんにとって本を書くモチベーションにもつながっているんでしょうか。
鳥羽 あるでしょうね。特に一冊目に出した『親子の手帖』(鳥影社)は誰かに、特に子どもの親に宛てた手紙のつもりで、「この手紙を届けないと、子どもが死んでしまう」くらいの意識で書きました。
青木 それは時代の変化に対する鳥羽さんなりの問題意識からですか。
鳥羽 親の権力とか、学校の権力が、より洗練された形で巧妙に子どもたちを囲い込むようになっているという問題意識がありますね。
というのも、僕が塾を始めたゼロ年代初めには、「いい学校にいけばいい会社に入れて、いい将来が待っている」という物語がまだ成立していたんですよね。面談のときに、お父さんがそうやって息子を詰める場面も多々ありました。でも、いまやそんなことを言う人は絶滅しましたね。それにもかかわらず、学歴社会は変わっていない。むしろ激化している場面もある。
いまは昔みたいなわかりやすい価値観がなくなって、大人が言葉を失っている状況なんです。多様化した社会では、大人が自分自身の言葉で価値づけされた言葉を発するのは難しくなっています。だから今度は、そんなことをしなくても巧妙に子どもを囲い込むことができるようなシステムや方便が溢れかえっている。たとえば、『叱らない子育て』なんていう本がありますけど、実際に読んでみると、いかに叱らずに子どもを巧みにコントロールするかが書かれているだけなんですよ。その文脈で考えると、ダイバーシティの問題だって、いかに無難に今までの境界線をそのままにコントロールしていくかに矢印が向いているだけ。おそろしい言葉だなって思いますよ。
僕にはその一つ一つを「それはコントロールだよ」って暴きたい気持ちがあって、そういうモチベーションで本を書いています。
青木 ある種の秩序維持であり、社会防衛ですよね。コントロールという言葉には管理する側/される側という対立の図式が含まれているから、じゃあ「リフレーミング」という言葉で言い換えてみよう、みたいなレベルの話でしかない。だけど、その実リフレーミングには、既存の社会からはみ出ない範囲でモノの見方を変えてみましょうという意味が含まれていたりする。
鳥羽 今の子どもたちが追い詰められやすい、生きていけなくなる原因ってそこですよね。大人が最初から「理解があります」という体でくるから、子どもは反抗できない。そうやって、反抗さえできなくしていく。こういった家庭や社会の巧妙さが、どれだけ子どもに悪影響を与えているだろうかと思います。配慮ある社会が進んだはずなのに、子どもの自殺率はむしろ増えているわけじゃないですか。僕はその「配慮」の裏の顔を暴いて突いていかないと、また子どもたちが死ぬと思ってるんです。
青木 コントロールの話でいうと、ぼくが東吉野村に引っ越したのも一種の反抗です。町で暮らしているとコントロールされてしまうぞっていう危機感がある。たとえるなら、いまは車を運転していても、ちょっと車線を越えただけでアラートが鳴ったりして、そのガイドが巧妙すぎますよね。便利でいいところはあるけど、それでも自分の生のハンドルは自分で握りたい、みたいに思っています。
鳥羽 ほんとそうですよね。「自分の生のハンドルは自分で握りたい」ってすごくいい言葉ですね。一方で、いわゆる「中央」みたいなものから離れた「場」で、いまの教育現場について問題点を話しましょう、という人たちが話している内容って、実際の親と子にとってはまったくどうでもいい話だったり、意識が高すぎる話だったりすることが多々あるんですよ。そこらへんの浮世離れした話も、僕は絶対に嫌で。
栗原 たしかにそうですね。たとえば「子どもの自己決定を大事に」みたいな言説があったときに、子どもがいくらでもお菓子を食べたがるのを本当にそのとおりにしたら、健康が害されてしまう。だから、「お菓子を食べる時間を決めましょう」とか、「夕飯はなるべく一緒に食べましょう」とか、実際に家庭で求められているのって、そのレベルのことですよね。実際にはそういう基本的なことがうまくいかなくて親がめちゃくちゃ腹を立てて、そのあと後悔する、みたいなことの繰り返しです。それが現場感だと思うんですが、現場と言説がすごく離れている。
鳥羽 親子って、生き物として生々しく生きているのに、今どきに価値づけしたものを親子に投影すると、生き物としての親子が見えなくなるんですよね。親子にとってぜんぜんフィットしていない言葉を使ってしまう場面が多いと思います。
青木 ぼくは現代において地に足をつけて生きることを「土着思考」といって、自分にとっての「ちょうどいい」を見つけることを本でも書いてきました(『武器としての土着思考』東洋経済新報社)。
でも、一方でその「ちょうどよさ」をうまく言葉にしてしまう怖さがあって。人間を含めて生きものって変わり続けるわけだし、言葉にしてしまうことによって溌溂としたものが失われてしまうんじゃないかとか。
教師とは子どもの変態に気づく役割
栗原 鳥羽さんが『学びがわからなくなったときに読む本』の甲斐利恵子さんとの対談の中で、「勉強し続けるというのは、別の言い方をすると、変わり続けるということ」と言っていて、共感しました。ぼくも「学び」とは、自分が変わることがうれしくて、学びそのものが目的化していくことだと思っています。そういう経験をたとえたときに「逆上がり」が思い浮かびました。練習中は「逆上がりができない自分」なんだけども、できるようになった瞬間に前の自分には戻れなくなって、「変態」してしまっている。逆上がりができることそのものには意味はなくて、できるようになったことがただうれしい。人間って自分の変態が純粋にうれしいんだと思うんです。
ただ、逆上がりとは違って、数学で一皮むけたときって自分では気づけない。だから「先生」という他者の存在が必要になる。他者から「一皮むけたね」と言われたときに、その人からの承認がうれしいと同時に、自分が変わったことの喜びがある。こういう積み重ねによって、学ぶことそのものが喜びに変わっていくんじゃないかと思います。
鳥羽 変化に気づいて驚いてくれる人って大事です。その子が頑張ったときもそうだし、いまいち頑張れなくてそれでも振り絞ってたった一つ文字を書いたときに、「すごいね」「おもしろいね」って気づいてくれる人がいるのが、学びが発生する場の演出として一番いいですよね。
栗原 子どもの知性的、精神的な変態って、鳥羽先生のように見てくれている人がいないと難しいと思います。
鳥羽 塾に家庭とは違う機能があるとしたら、そこですね。多くの親は子どもの変態に気づくことが不得手です。親っていうのは、子どもが変態しないことを無意識に望む存在だと思うので。だって、学びによって違う生き物になっていくのは親の手元を離れることでもあるし、それは親にとっては受け入れられないくらい寂しいことかもしれない。そこまでではなくても、複雑なのは確か。
学ぶことは、いちばん身近な存在から身を引きはがすっていう経験であって、そのことを経験する場として、塾という場は学校よりもふさわしい面があります。学校って総合的にその子が大人になるための居場所みたいな使命を担っていると思うんですけど、塾は違う。塾はもう少し純粋な形で、その子が勉強以外の意義を持たずにいられる場です。塾は不純物が混ざっていなくて、一度そこにカチっとはまると変態する場としてすごくいい場所です。
青木 いまは、「個性」とか、「アイデンティティ」みたいなことが言われすぎていて、子どもたちがメタモルフォーゼ(変態)しないように社会側がしているんじゃないかとさえ思ってしまいます。
鳥羽 変態なんて、社会はけっきょく望んでいないわけですよね。個性なんて言葉を使っているけど、すごく無難なところに収めようとしていて、あくまで規範性の中でいかに差異を演出できるかっていう「演技」になってしまっている感じがすごくありますね。だから、みんなが理解してくれる範疇でやらないと、わきまえていない演技が下手な人になるわけです。そうすると、みんなのノリがわからない人ということになり、そのせいで「ダサッ」みたいな扱いを受けることになってしまう。
青木 そういった規範意識が強まってきたこの20年のなかで、鳥羽さんはなぜ勉強を教え続けているのでしょう。
鳥羽 僕自身は大学院のときに人生で一番しっかり学んだことで、それまで自分が大切にしていたものから身を引きはがされるような経験をしました。でも、その経験によってやっと自分の文脈をつくれるようになって、ずいぶん楽になった。それまでは、なんだかんだいって親のいうことや社会の規範性に引きずられて、その価値観と合致しない自分の「はみ出し」みたいな部分に対し、負の烙印を押さざるを得ないところがありました。
学ぶことが一つの解放になったんですよね。これまでの文脈から離れて生き直すことが自分にとって必要なんだと実感して、そこから学び続けたい、変態し続けたいなって思うようになった。ただ、そういうことをすべての人が必要としているとは思ってないんですよね。変態しない「安心」のほうがいいという大人をわざわざ揺さぶりたいとまでは思いません。すでに内的に動きすぎているせいで安心したい人もいるわけだし。
まず小学生には例外なく漢字と計算の基礎を身につけることに力を貸したい。生きるための道具として、漢字と計算はすごく必要だと思ってるんです。そして、中学生には文章が読めるようになってほしいって思っています。文章を読むことが身を助けることがあるし、世界に出会うための一つの大切なツールになることも知っているから。そのために、うちの教室には「国語塾」という国語に特化した授業も行っています。そして、高校生くらいになってくると、どうしても、自分の身を引きはがす、変態していく必要がある子というのが出てくる。受験勉強の指導の他に、そういう子たちに向けて、自分独特の「学び」が発生するような授業をやっています。哲学対話授業やリベラルアーツ(高校生のための総合教養クラス)などがそれにあたります。
栗原 ぼくも起業していろんなメンバーと働くなかで、自分と同じようにすべての人に「変態」を望むのは違うと思うようになりました。限られた枠のなかでしっかり役割をこなすことに喜びを感じる人もいますし、組織はそういう人によって助けられているとも思います。
「常に寄り添う」のはプロじゃない
青木 教える/学ぶという関係だけでなくて、教師には変態に気づく役目があるという話には「なるほど」と膝を打ちます。
鳥羽 その役割を意識しているかどうかは、教える場に立っている人の素質として大きすぎる気がします。
栗原 ぼくは塾をやってたときに、起業して大失敗して、地獄の底を見たことがあったんですけど。そんな状況なのに、塾がすごく楽しくて。いま振り返ると、自分は塾に癒されてたんですよね。あれは、人間の変態していくプロセスを見ることによる癒しだったんだなって思いました。
鳥羽 ほんとそうですよね。自分自身のいろんな実存的な悩みを抱えて教室に来て、子どもたちの「生成」に巻き込まれて、なんか楽しくなって帰っちゃうっていう日々、みたいな感じがあります。
青木 ところが、いまの社会的には、白黒つけずにグレーでいられることのほうがおかしな状態になっちゃってる。グレーでいつづけるためには、生ものに触れ続けるしかないんじゃないかな。
鳥羽 そうですね。かといって、生ものに寄り添うことが大事なんだっていう話で終わってしまうのは、キレイすぎてちょっと違うな、とも思います。
教える立場にたって、先生として演技することもすごく大事です。教師は子どもたちに敢えて一方的に何かを与えるということを、勇気をもって行使すべきだと思うし、そういう教師としてのプライドを持っていない人はダメだと僕は思う。親だって、人間としてというより、敢えて「親として」子どもに接することでしか子どもに与えられないものがあることも確かです。つまり、大人には大人の責任として引き受けるべき役割があるんじゃないかと思ってるんです。
真兵さんの言った「生ものとして触れる」ことは教室内では常に起こっていて、それを面白がったり翻弄されたりするのだけど、そこに直接素手でさわりにいくのは、教師が「いまこそ!」とスイッチを切り替えるときに限られると思うんです。「先生スイッチ」を「人間スイッチ」に切り替えて、一人の人間として自分を開く。というか、教室の「生成」の中に身を投げる。そうすることで、場が成熟していくということは間違いなくあると思います。また、日ごろはあくまでも「先生」としてふるまいながら、いざというときに「人間」として真剣に子どもと向き合わないといけないときがある。そうしないと子どもに何も届かないことがある。そういうときに、「いま人間スイッチに切り替えたな」と自分で認識できるのは心強いです。「寄り添う」というマジックワードがありますが、僕はこれを「人間スイッチに切り替える」と言い換えたい。
青木 ここまでお話してみて、いかがでしたか。
鳥羽 塾業界のインタビューとして、ラディカルに踏み込んだ話をさせてもらえるのは貴重っていうか、珍しいっていうか、少し受け止められないというか(笑)。なんだか珍妙な気持ちがしています。
青木 ははははは、すみません(笑)。
鳥羽 いまからこのシリーズで業界の風穴になるようなことをされていくなら、それはすっごい企みだし、応援したいです。これまで、こういう話は限られた塾や教育の現場の人たちとしか話せてこなかったっていう実感がありますから。
栗原 僕からすると、こんな方が塾をやっていると思うと、泣けますね。闘っているように感じる部分もある気がします。
鳥羽 闘ってはいるけど、ある子どもにとっては、僕なんてぜんぜんだと思いますよ。こうして少しでも讃えられたり、感謝されたりすると、やめてくれって思っちゃう。あの子ひとりに対してさえも、僕はまだこんなに力不足なのにと。
青木 鳥羽さんとの対話は、本質的としか言いようがないというか、何かを言おうとすると、何かを言い落してしまう。そんな回でした。ありがとうございました。
栗原慎吾(くりはら・しんご) |
青木真兵(あおき・しんぺい) |